Hinokiをご利用くださいました、干場義雅さんと、八巻元子さんの推薦コメントをご紹介致します。

 


厳選された天然の素材と、その素材を活かした調理法によって生まれた「だし醤油」や「唐辛子」は、どんな料理にかけても、一瞬で美味しくなるので毎日のように愛用しています。

特におすすめは、卵かけご飯。家に来られたお客様に〆でお出しすると皆さん口を揃えて「え〜!?  気絶するほど美味しいんだけど、いったい何をかけたの?」と感嘆の表情(笑)   

かなりの確率で喜んでいただけるので大切な方へのちょっとした贈り物としても重宝しています。

「多くの粗悪なものより少しでいいから良いものを」。僕の哲学は、洋服だけでなくライフスタイル全般、もちろん食にも通じます。人は年齢を重ねれば重ねるほど、限りある時間の大切さを痛感し、量より質、本質を求めるようになるものです。Hinokiの製品も、まさに同じようなことを伝えたいのではないかと感じざるを得ません。

干場義雅
Yoshimasa Hoshiba

株式会社スタイルクリニック代表取締役
『FORZA STYLE』(講談社)編集長
ファッションディレクター
ブランドクリエィティブディレクター

1973年。東京生まれ。三代続くテーラーの息子として生まれ20歳から編集者に。『MA-1』、『モノ・マガジン』、『エスクァィア日本版』の編集を務め、『LEON』や『OCEANS』など数々の人気男性誌を創刊。37歳で独立し、株式会社スタイルクリニックを設立、代表取締役に就任。2013年、船旅を愛する男女誌『Sette Mari(セッテ・マーリ)』の編集長に。現在は、動画を中心に上質なライフスタイルを提案する講談社のウェブマガジン『FORZA STYLE』編集長として活躍中。https://forzastyle.com
新聞、テレビ、雑誌、ラジオ、トークショー、イベント、ブランドプロデュースなど、その活動はメディアの枠を越えて多岐に及ぶ。インスタグラム@yoshimasa_hoshibaも人気。


 

“最後の職人”西堀高市
 
親子二代にわたる西堀さんとの交流の、そもそもの始まりは『四季の味』初代編集長であった父森須滋郎。
西堀さんが静岡市内の某割烹店の板長だったころに遡る。

もともとファッションデザイナーを生業にしていた父は、晩年婦人誌『マダム』の編集長から食の道に徹することを選んだ。
いまでこそ“誰でもグルメ”の風潮だが、往時は婦人誌の付録の実用的なレシピが重宝がられた時代。
やがてエポックメーキングな食の専門誌としての位置を不動のものにしたのである。

しかし、筋金入りの食道楽でもあった父は、家庭料理にこそ食の根幹ありと位置付けていた。
それゆえに日々の食事を母任せにせず買い物から後片付けまでを楽しみつつこなしていた。
そんな父だが、いやそんな父だからこそプロの料理人の領域を決して侵さず生涯食べ手に徹し、優れた料理人の元へ深い敬愛をもって通い詰めた。
西堀さんもそういう対象だったわけだ。

それも半端な入れ込みようではなく、当時全くの無名だった西堀さんを『四季の味』の誌面に引っ張り出した。
縛られるのが嫌いで名声などに無頓着だった西堀さんがしぶしぶながら応じたのは、おそらく森須滋郎その人に惹かれたからだろうと推察している。

生意気盛りの西堀さんが、この人に「旨い!」と言わせたいと思う相手が父。
一方、食の堕落の兆しに危機感を抱いていた父をして遠路を厭わず通っても食べたいと思わせた料理人が西堀さん。
じつに幸福な関係ではないか。
奇妙な巡り合わせから、父の死後、二人の女性編集長を経て娘の私が四代目編集長になり、西堀さんの薫陶を受けることになるとは! その辺の経緯は別の機会に譲るとして西堀さんと父の関係は多くの示唆に富む。

二人に共通するものは、並外れた好奇心と遊び心。しかも二人とも露骨を嫌い粋を貴ぶ。
父が密かに西堀さんを“名人”と称していたことを父の死後人伝に知ったのだが大いに納得できる。

さて時代は過ぎ、父が物故し、やがて西堀さんも現役を引退して久しい。

私自身、つねづね西堀さんの外連味のない料理に感嘆し、料理の本質を教えられていただけに落胆も一入。
その後も、食の背景は悪くなるばかりで、インスタ映えだのどこやらの星がついただのと喧しい。などと嘆くばかりで、自分の力の無さを痛感しつつ私もリタイアした。

西堀さんのような不世出の料理人は“最後の職人”として消えゆくだけなのか……

そこへ藤田直樹という弱冠三十歳の若者が私の前に現れた。
西堀さんの最後の弟子でもある彼は、師匠の引退後、さまざまの曲折を経て「親方の仕事にもう一度光を当てたい」との想いが強くなったという。
話を聴けば、西堀さんと直樹さんの出会いにもまたドラマがあった。

18歳のとき、西堀さんの料理を始めて食べて衝撃を受けたとか。以来、何度も通いつめた。
当時は鳶職だったというから、食に関わっていたわけではないのにとうとう弟子入りを志願したそうだ。
西堀さんの料理が、無垢な若者の心に強く響くほど説得力があったのか。
それとも直樹さんの隠れた資質が西堀さんのピュアな味によって開眼したのか。おそらくその両方ではないだろうか。

それはさておいて、ひと月後に暖簾を下す腹積もりだった西堀さんは断った。
それでもと食い下がる直樹さんの熱意に、ついに西堀さんが根負け。かくして期間限定の師弟関係が結ばれた。

ひと月後、西堀さんは一丁の薄刃を与えて「もっと板場を下積みから修業しろ」と京都や宝塚の割烹を紹介したという。
合わせて一年弱追い回しから経験したところで西堀さんに呼び戻された。
同じ静岡市内の鷹匠町で支援者の計らいで再び店を出すことになったのである。

直樹さんの喜び如何ばかりかと、想像に難くない。
結果として西堀さんが引退するまでの数年間となったが、心酔する親方の仕事をつぶさに見聞できたことは生涯の財産となったに違いない。

その後、ご多聞に漏れず紆余曲折を経つつも「親方の仕事をなんとか世に残したい」という思いが募るばかり。
手始めに、西堀さん独自のレシピを忠実に再現した八方出汁を商品化することを思いついた。
当初は断り続けた西堀さんも、数え切れないくらいの試作を経て、やっと首を縦に振ってくれたという。

直樹さんの熱意と根気が実った瞬間であった。

この経緯を聞き、わが意を得て膝を叩いたのはもちろんだが、いまその何十倍もの喜びを噛み締めている。
西堀さんの仕事が、継承という形で孫ほどの若者によって残されようとしているという事実。
直樹さんの試みは、食をファッションとして扱う時勢への警鐘として一部の心ある人々に届くに違いない。

食は継承を経て初めて文化となり得る。若い彼から当たり前のことを改めて教えられた思いに身が引き締まり、まさに負うた子に教えられたのである。

八巻元子 クラシ・ヲ・アソブ主宰 
料理季刊誌 四季の味元編集長 


西堀高市プロフィール
昭和13年生まれ。生まれ育った静岡を拠点として地産地消を心掛け、化学調味料を嫌い奇を衒わず淡麗にして和心あふれる料理の作り手。
割烹『にし堀』は遠方からも足を運ぶ多くのフアンを集めましたが、やはり静岡生まれのとある直木賞作家もその一人。
「西堀さんという物語をいただく」という名言を残しています。